また、今村幸太郎(浜松菅原)・水野久平(浜名郡北浜村寺島、大正六年没、七十歳)・高柳遠市(浜松田、昭和十一年没、六十五歳)・内山英太郎(浜松成子)・山下要一(浜名郡蒲村植松)・川井徳次郎(浜松新 )などがあった(菅沼才平『織機大工と織機の変遷』)。しかし、手織や足踏のように人力によるのではなく、機械力を動力とする織機の出現は誰でもが待望するところであった。ことに日露戦争が終り満州へ遠州織物の輸出が始まったとき、この方面を視察した宮本甚七と木俣千代八は「織機を足で踏んで居たんじゃ間に合わない、どうしても露西亜やアメリカの綿布と競争するには動力織機で能率を増進して行かなければならない」(『遠州織物を語る』)と痛感して話しあったという。やがてこれは業界の強い要望となって、明治末期から大正初期へかけて浜松地方には力織機の製作に志すものが続出するにいたった。
浜名湖西岸の豊田佐吉(敷知郡吉津村山口、現湖西市)はおき、浜松地方では須山謙一郎(須山式、浜松中島町)・池谷七蔵(池谷式、安政二年生、浜松町大工在住、日本形染株式会社経営、大正十一年十月没、六十八歳)・鈴木道雄(鈴木式、明治二十年三月、長上郡鼠野村生)・飯田弥吉(飯田式、浜松馬込町)・鈴木政次郎(鈴政式、明治九年六月敷知郡野口村生)をはじめ田辺政太郎(田辺式、浜松佐藤町)などが著名な力織機製造業者で、織機の名称には製造者の名をかぶせて称するのが普通であった。
鈴木道雄