浜松地方における化学染料導入の先達には鈴木雅雄(浜松羽二重機業実習所教師)・早川吉之助・高村栄蔵・斎藤徳次郎・吉野徳太郎(浜松早馬町)・太田六三郎(浜松元目町)などの人々があった。鈴木雅雄(文久元年浜松板屋町生)は染色法を授ける私立浜松染織共研学舎(明治二十九年四月)を設立し、三十年八月には遠江織物組合が設けた遠江染織講習所(第一期卒業生二一名を出したが三十三年四月に閉鎖)の染色部に勤務、三十二年二月『遠江染織新報』を発刊した。また早川吉之助は明治三十年に板屋町で浜松最初の染色工場を開いている。高村栄蔵(慶応三年敷知郡新居宿生、浜松八幡地に居住)は浜松の永隆社(前述)に招かれ浜松八幡地(砂山)で化学染料の研究を行ない遠江織物同業組合に化学染料使用の必要を進言したという(なお、この間には国産藍の減少を憂いた報徳社の人々によって山藍という琉球産の藍の栽培が研究されたこともあったが成功しなかった)。