ここで遠州織物の海外輸出の経過をたどると、その開始は日露戦争を契機としてわが国の綿織物の輸出が始まったと同時であった。政府の命令で宮本甚七と木俣千代八の両名が綿織物業界の代表として明治三十八年の三月から六月まで満州市場を調査したのが契機であった。帰国した両名は輸出向綿布の製造販売を計画し、遠江織物同業組合の支持を得て合資会社永福公司(エイフクコンス)(浜松町神明、社長宮本甚七、資本金一〇万円)を創立、大尺布(たいしゃくふ)と称する巾一尺三寸の輸出向白木綿を製織し、日本形染会社(社長宮本甚七)に加工をさせ輸出をはじめた。遠州織物最初の輸出であった。しかしその翌年になると日本形染株式会社が永福公司を合併、同社は五十万円に増資し、金融機関(西遠銀行)の援助をうけ永福公司の事業を継続することとなった。こうして四十年にかけて輸出は活況をみせたが、大手の日本綿布輸出組合(大阪紡績をはじめとする大手五社の組合)が満州に綿布を売り出すとこれに押され、戦後の不況も手伝って四十一年には日本形染株式会社も減資し、輸出は蹉跌をみることになった。そして広巾も増井次郎作(現在の当市森田町在住)が内需用として生産するにすぎなかった(『遠州織物を語る』)。