浜松で輸出向広巾織物が本格的に生産を開始したのは、大正五年ごろ創立された大正織布会社(浜松馬込町、寺田松三郎・加藤伊久蔵による)が最初であった。当時は第一次大戦中ではあり、世界的に織物の欠乏した時代だったので、わが国の織物工業は未曾有の好況時代を迎え、輸出用綿布はいくら織っても足らぬ時代であった。「あの当時は大巾が少ない所にもって輸出物の注文がメチャメチャに入った。【成金時代】しかも遠州地方独得の縞の大巾(仕立上り四二インチで他地方の三六インチに比して広かったのが好評の原因であった)が非常に注文が入って、何処の家でも三月から半年さきの注文で織り切れない」(『遠州織物を語る』)状態で、いわゆる成金が続出する時代であった。こうして広巾に転向する業者が続出し、広巾織機は大正三年二百七十六台(力織機中における割合三・四%)が七年には約十三倍(同上割合二七・八%)、十四年には二十六倍(同上割合二五・三%)となっている。まさに遠州織物の黄金時代であった。