大正九年にもこのような不況がおこり、このときは織れば織るほど損をする時代であったが(大塚章司『喜寿格子』によると綿糸六〇〇円が三〇〇円に暴落したという)、これにともかく対応しえたのは力織機化普及のためであった(大正五年八〇%)。工場が小親模で「千変万化の織物ができ、一種類のものを五十反でも百反でも織ることができる」のが大企業と異るところで、「中小工業は非常に虐げられている反面にそういった非常な長所」(『遠州織物を語る』)があったからであった。もちろんこれには組合をはじめ、その背後にあった五大問屋を中心とする販売業者たちの積極的な市場調査と宣伝活動および、需要家の要望にもとづいた製造業者への指導も忘れてはならないことであった。遠州縞などといわれた遠州織物の商品名が全国に知られるようになったのはこのころからであった。