【高柳信蔵】それには同業者が団結して製品検査を励行し、信用保持に努めることがもっとも肝要であり、そのためには同業者が協同して同一商標を使用し海外貿易業者との直接取引するに外なし、と考えていた高柳信蔵(明治十二年敷知郡新所村、現湖西市生、昭和三十二年没、七十九歳)は、かって大正八年当時湖西方面の同業者に呼びかけて「富士印」という商標をつくることを提案して不成功に終った。翌九年かねて着目していた四国今治地方の柳条布を研究、堅牢で美しいナフトール染による青・赤・黄の染糸の縞三綾(しまみつあや)の試作に成功した。縞リンと俗称されたこの織物が東南アジア市場で好評であったため、十年六月縞三綾に「永久印」(織姫に蝙蝠を記した模様)の商標登録をし、英国領シンガポール政府の登録許可を得て輸出に対する万全を期したのであった。