羽二重 羽二重機業実習所

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 かねてから輸出羽二重の生産をもくろんでいた遠江織物組合では組合の基礎が固まってくると、桑原為十郎・宮本甚七らの主唱によって組合の事業としてこれが実現に着手することになり、まずその技術者養成のため明治三十四年十二月、浜松大字板屋に遠江織物同業組合立輸出羽二重機業実習所を設立した。実習所には羽二重機二十台を据えつけ、教師(鈴木雅雄・勝木円七・朝倉喜六・勝木こと・池田いさご・東ふさの)は先進地福井より招聘し、実習生は男女とし修業年限は一年ないし三年間で優秀な者には補助金を支給することとし、県下一円より募集した。応募実習生は三十五年一月までに十二名、その後増加して同年末には男四名女十九名の計二十三名であった。
 原料生糸は地元の浜名・磐田・小笠郡等の製品を使用し、浜松町鍛冶の横山商店などから購入した。三十四年に九十七疋、三十五年三百四十三疋、三十六年は五百九十八疋と生産高も増加したので、製品は石川・福井の両県および横浜の輸出織物商に委託して販売した。しかし生糸相場の高騰に比して羽二重の不況のため利潤が上らず、県から年額千円の補助を受けながらも経営は赤字続きであった。そのため三十八年三月にいたり実習所を羽二重製造業松本幸太郎(天神町村)に譲渡し、羽二重生産の先駆的役割を果した実習所は四か年で終り、組合の意図した目的は果すことができなかった(『平松実家所蔵文書』)。