経営形態

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 【工場数】さて、これらの織布工場の経営形態をみると、浜松市内織布工場数三百六十四(大正十三年)のうち織布職工数十人以上の工場数は百三十九、十人未満は二百二十五工場である。そして十人未満の工場は全織布工場数の六十一%にあたる。【職工数】また織布職工全数六千四百三十人で、織布全工場からみれば一工場あたり平均十八人である。【零細企業】また女工数は織布四千五百七十四人で全織布工員の七十一%で、これを要する零細な小工場がどんなに多いかがわかる(本節第二項「工業」参照)。つぎに郡部に例をとって二、三あげてみよう(各村誌による、下表参照)。ここにはなお多くの賃機業がみられ、その数およそ三千有余戸を算する。
 
(表)河輪村(明治44年)
戸数力織機手織
工場6430552
家内工場3015315
賃機業80不明不明不明不明

 
(表)天王村(明治44年)
戸数力織機手織
工場101917413169
家内工場31310323
賃機業不明不明不明不明不明

 
(表)和田村(大正2年)
戸数力織機手織
工場510601423
家内工場21761315
賃機業3不明不明110

【家族意識】大企業はさておき一般に織屋といえば、浜松地方独得の槙(まき)垣に囲まれた屋敷内の一隅に、鋸形の屋根を持つ黒ペンキ塗の小さな木造工場を有しているというのが一般的な形式で、経営法もさきに佐藤一色(現在当市佐藤町)でみてきたように一部落内の数軒の織屋は親戚・縁故同志という場合が多く、有無相通じ力を貸し合い互に助け合うという方法であった。【遠州式経営】いかにも遠州人らしい方式で、それなればこそ幾たびの危機にもよく対処し生きのび、浜松地方の先導工業として、この地方の工業地帯形成の力となってきたのであった。