女工の生活

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 当時の女工の生活については詳しいことは知りがたいが、明治の末から大正の初め(明治四十一年十六歳~大正四年二十三歳)まで浜名郡村櫛村鈴木長一工場に勤めていた田中あさの(明治二十五年、現在の愛知県北設楽郡東栄町生)の記録(松下誠『私の郷土誌ノート』)をみるとその一端を知ることができる。
 
【織機】それによると、織機はチャンカラ(手織機)から千ばい(専売の機織(はたご)、すなわち足踏機)へ移る時代で、一人に一台を与えられ夜具地(糸は手機で一六号、千ばいで二〇号、抜縞は手数三二〇すじ)が主で(一日に九寸七分巾の布地を二反分織り上げて一人前)あった。【織場】織場は屋敷内に建てた荒壁のままの粗末な小屋で、織機は土間にじかに据えたまま床もなかった。照明はランプ(その掃除は工女の仕事であった)であった。織場の外には釜場があって男工が糸の糊付をしていた。
 
【日課】一日の日課は前頁下表の通りで、労働時間は早朝(夏は四時、冬は五時)に始まり終業は夜十時で、休憩は食事時間の合計一時間半(朝・昼・夕の一回三〇分ずつの三回)、労働時間は十五時間前後であった。そしてこれがどこでも普通であった。
 
(表)織女工の日課表
織女工の日課表
始業夏午前4時,冬5時
朝食午前6時(30分間)
昼食正午(30分間)
夕食午後6時~7時(30分間)
終業午後10時
自由時間入浴・洗濯等
就床午後11時30分~12時

 織場の夏は暑苦しくて皮膚に汗疹ができ、冬は火鉢一つなく寒くてひびやあかぎれが絶えなかった。村櫛村には村営の共同風呂(明治十八年開始、入湯料大人二厘、小人一厘)があったので、仕事を終ってからの入浴が唯一の楽しみであった。自由時間もわずかで夜は遅くなりがちで朝は早いし睡眠時問が短かかった。
 
【休暇】休みは毎月一日と十五日の二回あった。といっても午前中は工場および工場主宅の掃除をやらせられたりして午後三時からの休みであったから、早仕舞という方が適当であった。完全に一日休めるのは正月と盆と秋祭の日だけで、正月と盆には生家に近いものは里帰りができた。帰らないものは浜名湖を舟で堀留運河を通り、浜松で芝居見学をさせてもらった。休みの日は五十銭か一円ぐらいのお小遣をもらったがとてもうれしかった。【賃金】お給金は年ぎめで、最初の半年は五円と着物をもらったが、そののち夏は単衣ものと帯、冬は羽織と着物を支給され、やめるときには年給四十二円であった。
 労働条件は苛酷ではあったが「働いて得た金はすべて里の家へ送りました。(中略)家計を少しでも助けてやることができれば、とそれだけが私の生きがいみたいなものでした」と、田中あさのは述懐している。
 以上は村櫛村での一例だが、笠井町や入野村では女工の契約期間は三年ないし五年間が普通で、その期間の給料(前借契約金)は父兄へ前渡しするのが一般であった。大きな工場には寄宿舎があったが、普通は工場主の住宅の二階とか別棟の二階(下は物置)に居住するのが普通であった。炊事は工場主の妻の担当で、麦飯が常食でお菜は家庭菜園のものが多かった。
 
【募集】以上が大正期から昭和前期の女工の状況であるが、雇入れには桂庵と称する周旋業者によるのが普通で、出身地は東北が多くなかでも秋田・福島・茨城方面が多数を占めた。
 昭和に入って、四年に改正工場法が施行されると、婦人及び少年の深夜業が廃止となった。当時の就業状態の一例をあげると上表の通りであった(昭和十四年『蒲村誌』)。
 
前番午前5時~午後2時
休憩午前11時より30分間
後番午後2時~午後11時
休憩午後6時より30分間
昼専属午前6時~午後5時
休憩午前11時より60分間
休日毎月2回(第1及び第3日曜日)
(前番と後番とがあって毎月2回以上交代した)

【家族意識】工場は小規模であるし職工の人数も少ない、生活も同一屋敷内であるし、それに雇入にも姉から妹といった縁故関係によるものが多かったので、雇用主と職工との関係は家庭的である場合が多かった。そのためさきにのべた田中あさののように浜松付近で永住するものもあり、婚後も主家へ出入する例がみられる。
 遠州織物振興のかげに、このようなうら若い女性の青春を賭けた汗と涙の忍従的な生活があったことは忘れてはならないことである(中道朔爾『遠江積志村民俗誌』)。