例えば大正九年に始まり同十三年まで順調に伸びた縞三綾(上表参照)も国内各地でその製造が始まると海外への売行減少となり、同十一年から生産を始めた遠州クレープも昭和に入り不況のため需要が止まると、採算のよいポプリンやサロンへ移行していった。ことにサロンは東南アジア各地の生活衣料として好評のところへ、鈴木道雄のサロン向織機の発明(昭和四年)もあって生産量は増すばかりであった。そこへ昭和二年南方各地を視察した山本又六(浜松工業試験場長)や同五年加茂喜一郎(永久社専務理事)の南方市場視察による販路の拡大化も手伝い、遠州サロンは播州サロンとともに国内サロン生産高の九十%を占めるにいたった。そこで両地では無用の競争をさけるため縞サロン統制連合会を創立し、生産調節や製品の検査を励行し、品質の保持に努めることになった。ときに昭和七年であったが翌年になると印度や蘭印との貿易事業が悪化し、わが国よりの輸入品の制限、関税の高率化が実施されると、八年七月にはサロン生産の休織をせざるを得ないようになった。そののちも事態は好転せず、十三年八月には永久社のサロン部も解散となった。しかしサロン製織によって得た技術は、テーブルクロス・ナプキン・ハンカチーフ等の北米向その他多くの製品を生み出す原因となった。
(表)縞三綾の生産推移
年次 | 生産高 |
大正9 | 2,560反 |
〃10 | 50,583 |
〃11 | 86,000 |
〃12 | 84,207 |
〃13 | 101,530 |
〃14 | 93,046 |
〃15 | 53,723 |
昭和2 | 41,252 |
〃3 | 17,894 |
(『遠州輸出織物誌』)