昭和十二年に日中戦争が始まり、矢つぎばやに輸出入品等臨時措置法、翌十三年三月には綿糸配給規則が公布されると、遠州織物も輸出は減少するばかりか原料の綿糸不足となり、ついに操業困難となってきた。そのため翌四月には広巾十七%、小巾十二%、広小巾併用で十九%の休機があったという。ついで輸出確保のため輸出用以外の綿布の製造は禁止され、十四年には輸出向専門工場が指定された。このとき永久社五百四十八工場のうち五百九工場(織機一万五八八四台)が許可となったが、これは全国指定工場のうちの四十%にあたっていた。そして内需向の小巾製織業界は人絹・スフ等の代用品の製造へ転換していった。
また輸出用綿糸が内需方面に横流れするのを防ぐために、輸出綿製品の配給統制が強化(輸出入個人リンク制度)されたりしたが、その綿布も戦争の進展とともに輸出は停滞し滞貨は激増するありさまであった。