浜松へ波及

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 【五社神社】当時の新聞記事によると、十四日浜松市内には朝から「今夜米騒動が起こるぞ」というような風評が流れていたが、夕方になると利町(とぎまち)の五社神社境内へ十人、二十人と市民が集まり始め、午後八時ころにはおよそ六百人、九時ころには千人にも脹れあがって不穏な空気に包まれた。事態の急を聞いた浜松警察署長は解散を命じたが、群衆は「署長の口では米は安くならん、相手は米屋だ、米屋を出せ」と口々に叫び、それを制止しようとする警察官に罵声を浴びせ投石を始めた。そのうちに「保有米の即時放出」「米廉売の即時決行」と書いたプラカードを掲げた三十歳前後の男がとび出し、米価問題につき政府批判の演説を始めた。群衆またこれに呼応し、午後十時ころには最早警察の力をもってしても事態を押え切れない状態となった。署長は「誓って値下げを断行させるから」と必死になって慰撫したが、興奮した二千余人の群衆は耳を借さず、ついに境内から一気に坂を下って伝馬町の大通りに押し出し、市内各所で米穀商や富豪の家を襲撃するにいたった。【伝馬町 後道】最初の、当時政友会の事務所になっていた伝馬町平野屋旅館では、暴徒と化した群衆はガラスを破壊し、戸障子を折り、家財道具を道路に投げ出して散々に荒れ、続いてすぐ近くの米穀商組合事務所の静岡新報支局長宅になだれこんでガラスを割るなどして気勢をあげ、更に同町の米穀商米清に向かったが、先まわりした警察側の厚い警戒の壁にさえぎられ、米穀商組合役員が集合している後道(千歳町)の某料理店に殺到した。【鍛冶】しかし役員会は解散後だったので、群衆は道を東海道にとり、喊声をあげつつ、東進して鍛冶町から一旦新川橋付近に移動した。ここでもまたもや警官隊に阻まれたため、四分五裂して市内をゲリラ的に横行し、米穀商や富豪の家をつぎつぎと襲った。田町あたりでは石油罐を家の中に投げ込み火をつける者も現われて、市内はまったく無警察状態となった。こうなると鎮圧には最早軍隊の力をもってする以外になかった。【軍隊出動】ついに午前零時ごろにいたり県知事の浜松歩兵六十七聯隊の治安出動の要請となった。しかし完全に常規を逸した群衆は、午前一時半出動した完全武装の三個小隊の軍隊に対しても一時は「細民救助ノ為ニヤッテイルノニ、何ヲスルカ。突クナラ突イテミヨ」と興奮しいどみかかったが(『予審終結決定書』)さすがに抗し難く、弥次馬が退散したのを機会に三々五々姿を消した。

浜松の米騒動記事

 
(表)遠州地方の米騒動日表(大正7年8月)
地名行動の対象・要求と形態激化の程度警備の特色備考
11日浜名郡新居町集合
周智郡森町移出反対示咸数百名
13日磐田郡二俣町鎌田米商に値下数百名
14日浜松市と
浜名郡天神町村
米商多数(天神町村三戸を含む)に値下,
金賃に寄付
米商の若干屋内侵入,
金貸金原宅放火未遂
出兵数千名
小笠郡横須賀町米商(要求不明)米商宅屋内侵入
15日浜松市宿屋等2戸襲撃
警察署に釈放(不成功)
宿屋等2戸
屋内侵入器物損壊
出兵1000名
榛原郡金谷町米商・資産家計9戸に値下と寄付米商・資産家の多数,
屋内侵入器物損壊
出兵1000名
磐田郡見付町米商・資産家約30戸に値下と寄付,
警察署に釈放(不成功)
米商・資産家の数戸,
屋内侵入器物損壊
出兵数千名
小笠郡掛川町多数の米商・資産家に値下と寄付資産家山崎家
屋内侵入器物損壊
出兵1000名
引佐郡西浜名村資産家石川宅(区長)・堀川米商襲撃石川宅建物損壊
堀川宅屋内侵入
出兵1000名
軍隊に反抗
16日磐田郡笠西村米問屋に値下と寄付,
米問屋役員宅3戸襲撃
米問屋・役員宅3戸,
建物損壊
巡査抜剣1000名
磐田郡袋井町米商に値下米商
屋内侵入器物損壊
出兵5~600名
17日周智郡犬居村村内各米商に値下米商若干
屋内侵入器物損壊
榛原郡下川根村米商2,3戸に値下と寄付
26日磐田郡竜山村久根鉱山運搬水夫賃上争議示談

ただし『三ケ日町史』には西浜名村は8月14日とある(『米騒動の研究第五巻』)