そうした動きのうちに、大正十四年十二月二十八日に日本楽器株式会社(以下日楽と記す)がハモニカ部門の不振を理由として百六十三名の解雇通知をしたために起こった争議は、わずか四日間で大晦日には会社の要求を受諾という惨敗に終わった。そしてその原因は従業員側の結束の乱れであったという反省の声は、期せずして関係者の結びつきを強固にする結果となった。この間の消息を日本労働組合中部評議会の機関紙(一月二十三日付)は「浜松市在住の思想団体、民衆有志及び本部員石津貞利及び無産青年同盟員杉浦幸雄発起人となり同市に労働組合を組織せんと計画中のところ、その後更に島津寿平を加え百方奔走、共鳴者の糾合を図って」いるが「正式に発会式を挙ぐる運びになるやも測りがたし」と報じている。こうして日楽ハモニカストが導火線となって、浜松に最初の民間の労働組合の誕生をみたのは一月の終わりであった。名称は浜松合同労働組合(以下浜松合同労組と記す)といい、評議会に属した。