大正十五年四月九日に制定された「労働争議調停法」が、七月一日に施行されると、弁護士真下五郎は調停に乗り出したがこれも失敗に終った。この頃から評議会は調停策を協調会に依頼した。【協調会案】七月九日、協調会理事添田敬一郎は来浜し、会社側と種々折衝して、確定解雇者三百八十八名に対し解雇手当三万八千円(一人当り七五円)を一括交付するまでに進展した。同月十三日再び市長も加えて会談し、添田理事の主張に基づいて、会社側は解雇者を三百五十名に減少し、解雇手当三万八千円(一人当り八二円)という所謂「添田案」がまとまり、同月二十日にこの内容が発表された。しかしこの内容は争議団側の受け入れるところとならず、遂に同月二十八日に調停は不調に終り、添田理事は一旦会社にこの事情を説明したのち、労資双方の和解は困難とみて帰京した。