日楽労働争議は浜松地方の産業界に、労資双方ともども大なる影響を与えたことはいなめない。天野社長は争議終結後まもなく退任(昭和二年四月)を余儀なくされ、住友電線製造所取締役の川上嘉市が社長に就任(昭和二年五月)、会社は住友資本勢力の傘下に入った。日本主義労農同志会の動きは湖西地方の遠織組合傘下の工場に波及したり、いっぽう評議会系の無産運動も新天地を求めて、浜松地方になおも活発な動きをみせた。それにしても、もっとも迷惑をうけたのは浜松市民であった。
評議会代議員の山辺健太郎は日楽争議に参加したが、争議終結に際して「やはり負けたという感じがありました。しかし、なんとか組織を残そうと努力したのです。…それが地方選挙の最初の普選により浜松市会議員の選挙が九月三日に実施され、これを私が手伝ったとき役にたちました」と述懐している(『社会主義運動半生記』)。