【信号所】浜松と舞坂の両駅の間隔は六・五マイルもあったので、明治四十四年以後高塚に信号所が設けられていたが、付近の開発が進むにつれ、可美(かみ)・篠原(しのはら)の両村よりの新駅開設の請願運動となった。ときに大正十二年で、十五年になって設置の内定となった。しかし今度はその位置について両村の対立となり、ようやく昭和四年七月一日に高塚信号所を駅に昇格することに定まり営業開始、両村の人々の不便が解消された。
超特急車「燕(つばめ)」の停車方の陳情問題(昭和七年)、弁天島花火大会時の臨時列車運行(昭和三年)、駅の売子たちの服装統一(昭和三年)などがあったり、また駅の案内放送に女性が登場したのもこの頃であった。