なかでも東海道の路面を利用して敷設された中ノ町線は沿線の住民より危険視されたばかりでなく、煤煙は非衛生視されて、しばしば廃止運動が起きたので、大正十四年に中ノ町線とかねてから経営不振の笠井線とを鹿島線より分離し、浜松軌道株式会社(社長金原明徳、昭和二年一月浜松・中ノ町間の電化を目的とし浜松電気鉄道株式会社と改称)を創設することとなった。当時流行の軌道自動車を使用して起死再生をはかろうというのである。そして昭和二年末から休業していた中ノ町線も四年六月には軌道自動車による再運転を開始した。しかし戦争が苛烈になるとこの中ノ町線は十二年に、宮口線は十四年に、笠井線も十九年に廃止となった(『遠州鉄道二十年史』)。
(表)遠州電気鉄道旅客貨物数表
年次 | 旅客 | 手荷物 | 貨物 |
人 | 個 | トン | |
大正6 | 451,300 | 調査ヲ欠ク | 47,275 |
7 | 408,541 | 〃 | 62,759 |
8 | 435,926 | 〃 | 81,824 |
9 | 568,144 | 14,495 | 33,307 |
10 | 741,832 | 14,927 | 11,854 |
11 | 818,066 | 16,062 | 17,399 |
12 | 1,355,047 | 9,636 | 24,766 |
13 | 1,488,453 | 4,677 | 31,771 |
(大正15年発行『浜松市史』)