浜松鉄道株式会社

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 奥山方広寺のある引佐郡奥山方面や三方原などを浜松と結ぶ浜松鉄道株式会社は、はじめは浜松軽便鉄道株式会社(社長伊藤要蔵)と称し、浜松(中村忠七・石岡孝平)・引佐郡の有志によって大正元年十月創立され、三年十一月には元城・金指間四十五・〇五キロメートルが開通した。四年五月に浜松鉄道株式会社と改称し、本社(大字元目町)を新設の元城駅へおいた。同年九月元城駅から大日本軌道株式会社の板屋町駅までの路線も完成した。【気賀線】静岡気賀線(姫街道)に沿い三方原に出て、浜松田口線(金指街道ともいう)に沿って北上し金指へ出たが、まもなく同年暮には気賀へ延長された(二・一六キロメートル)。【奥山線】終点の奥山までの全長二十五・八キロメートルの全線開通をみたのは大正十二年四月であった(なお、その途中より分岐し井伊谷村より伊平村までの支線を設ける予定であったが実現をみなかった)。

新設された浜松鉄道三方原駅


元名残のトンネル(79m)

【トンネル】二フィート六インチの狭軌で機関車はドイツコッペル社製の二B型で煙突が長く、定員三十四名の客車を引いて一日八往復、所要時間一時間二十分で運賃三十八銭、煙突の形がらっきょうに似ているというので、らっきょう軽便の愛称で市民に親しまれ、新しく開通したいわゆる名残のトンネルは浜松地方最初のトンネルとして珍しがられた。【経営困難】沿線には聯隊をはじめ中学校や師範学校があったので軍人や生徒に重宝がられたが、奥山方広寺の半僧坊参拝客といってもその数に限度があり、それに開発の遅れている三方原は人口・戸数も少いので営業成績も振わなかった。【全線廃止】そのため電化(大正十年)を計画したり、自動車と対抗するため値下げをしたり(昭和二年)、昭和四年よりは軌道自動車の運行を実施したり、昭和二十年五月遠州鉄道と合併、一部電化したり、営業改善への努力を続行したが三十九年十月には人々に惜しまれつつ、ついに全線廃止となった。しかし、浜松地方と浜名湖北方面を結ぶ最初の交通機関として地方開発のために貢献すること大であった。

奥山線

               ◎駅
               ○停留所
               (但し 板屋―気賀間)
 
 なお昭和初期の私鉄建設計画に南海鉄道(昭和二年浜松砂山と中田島を結び観光地とする案)・浜松臨海鉄道(昭和五年中田島を観光地とし映画撮影所を誘致する案)・篠原と掛塚間軽便鉄道・湖岸循環鉄道(浜名湖遊覧鉄道)・伊場と雄踏山崎間鉄道計画など立案されては消えていった。
 
【光明電鉄】以上の他に静岡県西部地方には、光明電鉄株式会社(大正十四年六月設立、本社磐田郡中泉町、現磐田市)があって、昭和五年十二月には中泉・二俣間を約五十分で結び活躍したが折からの不況と資金難から光明村への延長計画も達成できず、わずか三年間運転したのみで、沿線住民の期待も空しく消えていった。