タクシー全盛

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 昭和へはいると、市内にはタクシー会社が乱立し烈しい競争を展開した。そのため幌付から屋根付の車というように新型の外車(フォード・シボレー・ビュイック)を競って購入し、輸入自動車の取扱い業者(旭町久野自動車商会)も出現した。
 
【円タク】運賃も昭和三年には市内一円均一となると「円タク」の愛称で親しまれ弁天島へ三円、気賀へ五円、時間賃一時間三円であった(『浜松新聞』)。この頃輸入オートバイの販売を行なっていた中野勘次郎(のち浜松ダイハツ株式会社を創立、昭和四十九年十二月没、八十歳)の工夫によるサイドカータクシーが登場し、市内五十銭均一で営業を開始すると忽ち普及し、営業者が続出して一般のタクシーと競争した。そのため三年の末にはタクシーが市内五十銭均一に値下げして対抗ということもあった(サイドカータクシーは小型の割に燃料費もかかり、乗心地も普通車よりわるいのでまもなく姿を消した)。

サイドカータクシー

 
(表)タクシー業者
萬歳自動車商会(駅前)
千歳自動車商会
浜松構内タクシー
ホワイト自動車商会(伝馬町)
ハヤイタクシ-(自動車弘業株式会社)
平和自動車商会
新町タクシー(新町)
浜松西遠自動車商会(田町)
御園自動車商会(海老塚町)
金時タクシー(栄町)
たかさごタクシー(砂山)
日本自動車営業部(栄町)
浜松小型タクシー
浜松タクシー
中央タクシー
山やタクシー
福長タクシー(駅前)
冨士屋自動車(鍛冶町)
旭自動車(鴨江町)
市街タクシー
第一自動車(千歳町)
富田タクシー部(サイドカータクシー)
油屋タクシー(舞坂駅前)

以上は『浜松新聞』『日本民声新聞』等からひろったものであるが,他にも記載もれのものがある
 
【メーター制料金】この烈しい競争を自粛して業者らの組合は昭和四年五月にはメーター制による料金を決定したが、協定は守られず六年に入ると市内を三十銭で走る業者も現われるようになり、これに対抗して「暑中お伺」として市内を二十五銭均一で、弁天島まで二円五十銭を一円で走るというような過熱状態となった。