政府も大正九年に遠江と三河・美濃方面を結ぶ遠美鉄道(遠江掛川駅より中央線大井町駅間)の計画を立てたことがあったが中絶状態となった。昭和にいたり東海道本線の補助線の必要が唱えられ、ことに軍部の強い要望によって豊橋から浜名湖北岸を迂回して掛川にいたる鉄道が敷設されることになった。これが二俣線(湖北線ともいった)で、工事は十年から十一年にかけて東は掛川駅から、西は新所原駅(豊橋と新所原駅間は東海道線を共用)から着工し、利木トンネル等の工事があったが、十一年十二月には豊橋駅と三ケ日駅間のいわゆる二俣西線が開通、十三年四月には三ケ日駅と都田駅間、十五年六月には都田駅と森町駅間が開通し、全線の営業となった。単線で三ケ日・二俣・森を経由し距離七十九・一キロメートル、遠州北部方面の材木、浜名湖北方面のセメントの輸送等、この方面の開発や三方原の飛行基地の航空燃料の輸送等にあずかって力があった。ことに新設の引佐郡都田村(現在当市都田町)の都田駅は浜松北部の新しい玄関口で、この日都田村は村をあけて開通への喜びにひたった(富田準作『都田村郷土誌』、『三ケ日町史』)。