小学校の増加

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 【大正時代 六校】小学校についていえば、明治時代の四十余年間は三校で足りていたのに、人口の増加・市域の拡張により大正時代の十五年間には六校を増して十校(附属小学校を含む)となった(下図および「浜松市立小学校」の表を参照)。図は小学校の増加を年代別にしたものであるが、この図表からも市がまず西部及び南部方面から発展し、順次東部から北部方面に伸びていく経過がうかがえるようである。

小学校増加図

            ●明治
            □大正(天神町村合併)
            ○昭和(曳馬町、富塚・蒲・白脇村合併)
 
【高等科】高等科は大正十一年に元城尋常高等小学校(以下、元城校という。他校もこれに倣う)を除き、市内の主な小学校に併置されたが、昭和六年にはこれを統合しその大半が廃止された。【女生徒進学率】高等科へ進む児童、ことに女子の数が少なく一校のみでは学級の編成ができないようなこともしばしばあったからである(県居校では昭和三年二四名、四年三六名の女児童が高等科二年を終了している。【高等科単独小学校】なお昭和十一年には高等科男子のみの城北高等小学校ができている)。尋常科も高等科も一学級の児童数は六十名ぐらいが普通で、一学級の児童数八十名を越すと二学級に分割することを認めた。【優良児童表彰制】また市は児童奨励のため操行学業優良児童を選び、これに賞状賞牌を授与する制を大正二年に定めている(一学級一名が普通であった)。教員数は大正十四年二百四名(訓導一九一、准訓導九、代用教員四)であった。