創造教育は図画・工作(当時は手工といった)・綴方に多くとりいれられた。図画はほとんど国定教科書は用いられず、低学年には山本鼎の唱えた自由画教育が、高学年では静物や風景の写生が行なわれた。クレヨンと水彩絵具の使用がさかんになり、新聞社や織田利三郎の一坪農業会など主催の写生大会や展覧会(会場は国光館が多かった)などがしばしば行なわれた。また工作では追分小学校(第二附属校)では表現自在な粘土細工教授が鳥居三郎によって行なわれ、また鳥居の製作になる賀茂真淵翁像や名物凧人形は浜松焼の名称によって郷土工芸として知られた。【自由選題】綴方は『赤い鳥』(大正七年鈴木三重吉発刊)の児童創作文の奨励や東京高師附属小学校の芦田恵之助の影響もあって、もっとも創作活動がとりいれられた教科であった。浜師附属小学校の加茂学而は『生命成長の綴方教育』(大正十一年刊)、二橋三郎は『綴り方教育 鑑賞から創作への指導』(大正十三年刊)を著し創作活動の必要を説いた。【綴る力の発刊】ことに、この両名の企画により大正十一年七月創刊された『綴る力』は、山田千之(南小学校)が編集を担当し浜松最初の児童文集誌(表紙は本田庄太郎)であった。これと前後して浜松元城小学校(女子校)の『みどり』、北小学校の『北光』、曳馬小学校の『夕やけ』、三方原小学校の『れいめい』、可美小学校渡辺巌太郎の『ふたば』が刊行され児童文集花ざかりの観があった。