第一次世界大戦後の経済不況が慢性化すると、浜松市内でも貧困児童がようやく増加し(大正十四年十一月「浜松九小学校の貧困児童救恤」『静岡民友新聞』)、昭和四年には授業料を免除し教科書・学用品・被服料を給与する児童は全市で百五十五名(元城小一〇、南小二〇、西小一二、東小二二、県居小二七、相生小一一、北小一二、龍禅寺小八、追分小二三、佐藤小一〇)に達した。学校給食の必要が説かれ県より研究校として指定された追分小学校(第二附属小学校)が、本県最初の学校給食を開始したのが八年であった(給食児童は五〇名が虚弱偏食者で、その他が二三名、一食四銭であった)。中等学校では中途退学者が増加し、昭和五年に浜松関係の男子校六校で四十四名、女子校(三校)では四十九名、ことに浜名郡立農蚕学校では農村不況のため昭和四年までに五十余名の中途退学者を出すほどであった(昭和五年九月『浜松新聞』)。市内の私立中学校の入学希望者数が減したのもこの頃であった。非行少年が増加し、四年浜松警察署長は市内各学校長を招き対策会議を開いている(昭和四年浜松警察署管内二五〇名、事件数一五〇件)。【研究会】職業指導が説かれ県の委託校として追分小学校は昭和三年六月と八年十月の両度にわたり職業指導研究会を開催している。教育の縮少が叫ばれ(昭和六年『静岡新聞』)、教職員の俸給の寄付減額不払等の問題がおきたのもこの時代であった(『静岡県教育史』)。