明治維新のさい政府は若者組(若衆連)に解散を命じたが、長い間の慣行は打破されるわけでなく、まもなく復活してくる(丸塚村は明治五年、和田村は二十年、吉野村は二十四年ごろ)。しかし従来の若者組から脱皮して新しい時代にめざめ、地域のために奉仕しようという新しい青年運動も興ってくる。【下石田】その最初に明治二十五年の下石田地区の与進青年会(まもなく解散、下石田報徳青年会が生れ、三十七年下石田青年会となった)があった。ここは遠州地方の報徳運動の発祥の地でもあり(第三章第二節第一項参照)農事改良の盛んな土地であった。この青年運動はたちまち近隣に波及し上大瀬青年夜学会(二十七年)、上石田青年学友会(三十四年、のち青年会)・市野青年会(三十四年)・小池青年会(三十五年)の発足となり、やや離れた吉野村青年団(三十六年)・村櫛村青年会(三十年)の結成となって農事改良・風俗改善・労力の補習等にめざましい成果をあげた。【松本杢次】これには与進小学校長松本杢次の力が大きかったといわれている。日露戦争がすむとその勝利の記念事業として浜松町・天神町村・浅場村・蒲村の有志によって浜名郡青年同志会が結成され、やがて政府の奨励・指導(明治三十八年十二月文部省通牒)もあって町村単位の青年団と改編されるようになる。さらに大正二年浜名郡青年団と発展した。会長は松本杢次であった(明治二年二月山名郡産山に生れ、二十五年白脇村寺島の松本家へ養子、二十五年から大正十二年四月まで三十余年与進小学校長、昭和十三年没、七十歳)。【青年雑誌の刊行】青年同志会の発刊した月刊の青年雑誌は青年団に受け継がれ浜名郡青年団雑誌部となり、青年の意見や感想その他で修養の資とした(大正四年四月には一四二号発刊)。