浜松の青年運動も、上述と同じような経過をたどって発展した。すなわち青年有志たちによって創立された浜松青年書籍館に端を発し、青年たちの研修機関として浜松青年同志会(浜松市連尺町、会長長谷川貞雄)と発展解消するのが明治三十五年十一月であった。これを動機として四十年十月には馬込青年同志会(大字馬込の改良を目的として十七歳から四十歳までの男子を会員)が設立(大正四年馬込青年団と改称)されたのを最初として政府の奨励により大正へかけて浜松の各町に青年会が誕生した。そして凧揚げの行事などを世話するようになった。ついでこれらの市内各町の青年会の統一となって大正八年七月に浜松市青年団が結成された。はじめ四支部をおいたが、のちに十一区に分ち十一部長をおいた。十二年十二月には規則を改正して浜松市連合青年団と称し部は廃した。十三年に団長は浜松市長で、市内各町青年会長四十八名を評議員に、団員約千七百名、団員年齢最高三十五歳から最低は十七歳の男子、事業内容は学力の補習、修養に関する講習または講義の開催、武術の練習と体育各種の施設充実などで、事務所は浜松市役所内におき、経費は会員よりの会費と、市と県の補助金でまかなった。