浜松地方にラジオの電波が及ぶようになったのは名古屋に放送局が開局されてからで、同局が浜松デーを催して浜松の現状や行事などを紹介したり(大正十五年)、昭和五年の行幸(浜松臨時放送局設置)、翌年の全国産業博覧会(ラジオ館の開設)に記念放送が行なわれたりすると、電波もようやく市民に近いものとなった。そののち浜松へ放送局誘致の声がおこり、市当局や商工会議所等の尽力によって浜松放送局(局長亀山六次)が浜名郡蒲村字大蒲に開局となったのは八年七月十九日であった。JODGのコールサインで出力は五百W(ワット)の六百四十KC(キロサイクル)、サービスエリアは大井川以西の遠州地方が主であった。当時(昭和十年)の一か月の聴取料七十五銭で、開局当時の聴取世帯数一万九百七十六戸で僅か八%であったが、十六年には五十%を超え十七年には五十八%に達した。
始めは三方原台地に建設の予定であったが、同地には飛行基地があったので許可にならず大蒲と定められた。【鉄塔】また東海道線の車窓から見える七十五メートルの鉄塔は人々を驚かせた。一県に二局(浜松と静岡)の放送局は全国でも数が少なかったが、浜松局は小県をしのぐ聴取世帯数を持っていた。【第二放送 ローカル放送】二十三年には第二放送を開始したが、浜松放送局が独自で放送するローカルニュースや天気予報は身近なものとして市民に喜ばれた。その遠州地方にちなんだ各種のローカル放送は、地方文化の向上に貢献することが多かった。ことに戦争がはじまるとラジオ放送は欠かせないものとなり、新聞も発行されない空襲時の報道は市民にとって唯一の耳となった(浜松放送局『三十周年史』)。