塵芥処理 大正十三年二月の新聞は「浜松市の塵芥一日約七千貫」と伝え、漸く塵芥処理が浜松市にとって大きな問題となってきたことをつげている。浜松でも明治三十三年の「汚物掃除法」により「浜松町汚物掃除規則」を作り、掃除監督吏員をおき、汚物は市近接の農家や請負業者に委託して処理をしてきた。しかし増加につれ大正十三年四月その処理を市直営とし、十四年からは一日平均馬車四台、腕車(わんしゃ)十輌で市内を五区に分け、地域により四日から八日毎に巡回処分を行なうこととし汚物埋却場も五か所設けた。十五年に入るとその増加は既設処理能力を上まわるようになったため、市は塵芥焼却場の新設計画を立て、設置位置については幾多の経緯があったが(前述)昭和四年二月に追分町の犀(さい)が崖(がけ)に設置が決定し、五年に入って完成、稼動を開始した。この間に「浜松市民をまたゴミ攻め―会社に任してから運搬能率が半減」(昭和三年十月七日『浜松新聞』)という批難や、完成後も煤煙や臭気等の問題で騒ぎが起ったりしたが、設備の改善につれて処理も順調に進むようになった。十五年三月に市とダスト会社の請負契約が終ると、同年四月一日から会社の施設をそのまま継承して市の経営となり終戦を迎えた。
【馬込川汚染問題 清掃問題】焼却場問題は昭和初期の本格的公害反対運動の始まりともいえる側面をもっていたが、その他にも硫化染料使用増加による「染工の硫化に馬込川下流民騒ぎ出す―二十余戸の染色工場」(大正十五年六月二十六日『静岡民友新聞』)とか、「汲取人横着を極め市民をくそ攻めに―いよいよ持ち上った糞尿問題 市の衛生課大頭痛」(昭和三年八月一日『浜松新聞』)というような切実な問題が起っている。