明治後期の凧揚げ

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 【鉄工場時代】しかし市街の宅地化が進んでくるとさらに広い総合の凧揚会場ということで、浜松町長鶴見信平の尽力により伊場の鉄道工場建設の予定地(約五万坪)を借用したのは明治四十三年であった。【町じるし】多くの町が一か所に集合するのであるから町ごとの識別が必要となり、明治三十年ごろから用いられたその町独自の凧じるしよりほかに、それを染めぬいた幟旗(のぼりばた)・提灯(ちょうちん)をはじめ法被(はっぴ)・手拭(てぬぐい)も用いられるようになり服装もととのってきた。そればかりか、己れの町と会場との距離が遠くなったので「引きあげ」も日没となることが多く、大八車(だいはちぐるま)に凧や糸枠(いとわく)などの凧揚用具を乗せ、これを曳き提灯をふりかざしながら一団となって掛声勇しく帰る風習が生じた。