このように屋台の出現によってお祭化が進んでくると、大正十一年から浜松に最も由緒深い徳川二代将軍秀忠公の産土神(うぶすながみ)の五社神社を市の総社となし、五月四日を例祭日と定め凧揚げ町組の代表者が参拝することになった。酒井真邑の著という浜松凧揚げの由緒を記した『浜松城記』(大正十五年発行『浜松市史』収録)が発見されたのもこのころであった。浜松の凧揚げは「飯尾豊前守殿御居城 義広(豊前守殿長子)殿誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る」と記した『浜松城記』の記事が、浜松凧揚げの由緒として採用され一般に普及するようになった。
大正初期の凧揚げ風景(和地山練兵場)