戦後は凧揚げの道具・屋台(やたい)などを焼失した町が多かったが、浜松に凧揚げだけはということで二十二年から再建された(会場浜師寄宿舎グラウンド)。そののち会場も和地山(わじやま)公園(旧和地山練兵場)・中田島砂丘などと二転三転したが、二十五年より市民あげての行事として浜松まつりが開催されるようになると凧揚げもその一環として組入れられ、四十二年からは会場も中田島砂丘と定まり現在にいたっている。しかし凧揚げ会場が市の中心街より離れているので、凧揚げには加わるが市内の屋台行列は中止する、屋台行列には参加するが凧揚げは遠慮するといった町組も現われてきている。戦前は男児のみの行事であったのに、戦後は町ぐるみの祭典ということで女児も加わるようになりいよいよ華やかに、それにつぎつぎ建造される屋台(大工頭梁に伊場の高塚房太郎、鴨江の三嶽一郎、浅田の大竹高一、寺島の松本作次郎などがあり、彫刻師に元城の早瀬利三郎、元魚の須部一郎などがある)はますます豪華となるばかりである。昼は凧で人の山、夜は屋台で人の渦となって観衆は年毎に増すばかりで、「凧も世につれ」といった感が深い(「特輯遠州の凧」『土のいろ』第三巻第二号、山崎源一『浜松凧揚祭の起源と変遷』、渥美実『浜松の凧の歴史』)。