文芸誌

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 【死の塔】そうした中に浜松に文芸誌『死の塔』が発刊されたのは大正三年四月であった。【松本長十郎】武者小路実篤の『白樺』に心酔した松本長十郎(浜名郡和田村篠ケ瀬生、浜松市総務部長、昭和五十二年十一月没、八十二歳)が同志をつのり発刊した月刊誌であった。表紙は浜松に関係のあった岸田劉生(後述)に依頼し、寄稿者に坂口刺青・鈴木肇・竹村啓祐(浜名郡市野村)・平沢紫魂などがあった。【平沢計七】平沢紫魂(計七、前述、第三節第二項)は鉄道院浜松工場勤務の二十三歳の文学青年で『死の塔』に「夢を追ふ女の群」を発表している。計七は東京から浜松へ転勤のさい、外遊に出発の恩師小山内薫と同車していたのに浜松駅で気がつき、たがいにわずかの別れを惜んだ、という。「あとがき」に長十郎は「君(紫魂)の恩師小山内薫氏にも寄稿の事御願」と記している。『死の塔』は創刊号で終ったが浜松で最初の文芸誌らしい雑誌であった。

死の塔