つぎの一生は浜松時代・地方時代・東京時代と三つに区分ができる。つぎは明治三十年浜松町立浜松尋常小学校へ入学(数え年八歳)、三十四年同浜松女子尋常高等小学校高等科へ進み高等科三年を修了、三十七年四月浜松町立浜松高等女学校(四年制)二学年に入学、四十年同校を卒業し、ただちに女子高等師範入学準備のため静岡県立静岡高等女学校研究科に進んだが、その夏退学をして浜松へもどった。
【文学少女】少女時代から読書好きで、時事新報社発行の『少年』を愛読し、長兄のすすめで同誌に投書し銀メタルを贈られたりした。女学校へ入学すると学芸部委員にあげられ、教師高田真雄の短歌誌『白萩』に加入したり、しばしば校長田辺友三郎(前述)を文学好きの学友たちと訪ね、古典の話をきいたりした(鷹野つぎ「私の投書家時代」『谷島屋タイムス』昭和十一年十一月号)。
【投書時代】浜松へもどると文芸雑誌へ投書をはじめ、十九歳の春には『女子文壇』に小説「女気」、詩「淋しみ」が、また『新声』四月号に詩「心いま」が入選している。このころ、「きし女」「月の霊」「月霊子」などの匿名を用いたという。