【鷹野との出会】つぎがその終生の伴侶となった鷹野弥三郎(長野県南佐久郡北牧村、昭和三年将弥と改名)と知り会いとなったのもこのころであった。当時鷹野は新聞記者として来浜し、つぎとの交遊がはじまったらしい。少女時代のつぎは気の合う友人と談話会をつくったり、長目の海老茶のカシミヤの袴をはいて、紐を熨斗目に斜めに腰高に結び、そのころには珍しい靴をはいて通学し、ヴァイオリンも習いに行くといった少女だったので両親にはいささか心配の種であったらしく、鷹野弥三郎との結婚も許すはずがなかった。つぎが弥三郎にしたがって浜松を去ったのは十九歳の夏であった(鷹野つぎ『私の少女期』)。
【浜松の回想】つぎはそれからのち浜松へは三、四回しか帰省していないが、浜松時代を回想して「浜松の風習ではまだ女芸、縫針の道を貴んで、女の学問は女らしからぬ女をつくるもののやうに思はれてゐた」といい、また「女も社会に立つ生活がよい」とぼんやり思ったりしたが、「今でかへりみると貴重な時代を思ひきって空費したといふ気がしてゐる」と述懐している。いずれにしても、こうしてつぎの浜松時代は終るのである。