つぎの地方時代は十九歳から二十八歳で東京へ移るまでである。名古屋新聞に勤務の弥三郎と名古屋で新しい生活をはじめたのは、明治四十二年つぎ二十歳の八月であったという。しかしこれは親の許した結婚ではなかった。正式の結婚届を提出したのは四十四年つぎ二十二歳、弥三郎二十七歳の一月二十八日であった。【松島十湖】この年の一月四日につぎが松島十湖(前述、浜名郡豊西村)の養女になっているところをみると、浜松町会議員を勤めたことのあるつぎの父弥助がその先輩の政友松島十湖に事情を話し、十湖の養女とすることによって弥三郎との結婚を許したのであろう。長男正弥の誕生はこの年の一月であった。四十五年三月弥三郎の転任により豊橋支局へ移ったが、大正三年秋弥三郎の報知新聞入りのため沼津へ転じたのもしばらくで福島(福島県)に移り、六年時事新報入社によって東京時代がはじまった。この間二男次弥(つぐや)が二年(昭和四十五年没)、長女参弥(みや)子が三年(翌年没)に生まれた。
大正元年に小説「古巣」を文芸誌『温室』に、二年六月名古屋新聞に小説「寄生蟲」を、翌三年一月同人雑誌『一隅』の同人として小説を発表している。つぎが参弥(みや)子をわずか一晩で乳児脚気のため亡くしたことは、つぎの大きな悲しみであった。のちになってつぎはこのころから「僅かの時間にノートのはしとか、有り合わせの紙きれとかに何かしら書き止めて」おくようになった。と追懐している。