昭和に入って、その五年ごろ東京都中野区沼袋に住んでいたが、十一年には中野の療養所に三男三弥とともに入院し十五年に小康を得て退院した。【四季と子供】そのころから貧困と看護疲れのなかにあってつぎは数々の感想文を発表しているが、このうち『四季と子供』は「幼ないころの思ひ出として、七八歳から十歳前後までの私の記憶を辿ってみた。郷里浜松の四季の推移と行事とを主として、それに私の子供のころの生活を織り込んでみたのである。」と序にあるように、明治三十年代の浜松があたたかい筆致をもってよく描かれている。療養費を得るための原稿かせぎというよりも、大正十二年夏(震災の直前)以来訪ねたことのなかった郷里浜松が懐しかったのであろう。「私の投書家時代」(昭和十一年『谷島屋タイムス』)「往時の浜松」(昭和十三年『谷島屋タイムス』)「私の少女期と浜松」(昭和十六年十二月『遠州文学』)を浜松の雑誌によせている。これらはいずれも当時の浜松をしのぶよい文献となっている。