戦局が苛烈になると、当局の方針に添い浜松市翼賛文化協会が結成された。同会は教学部(岡本富郎・廿日出厖・黒田伝次郎・米山喜太郎など)・芸術部(原田八郎・百合山羽公・久野茂・佐々木松次郎・飯尾哲爾・内田六郎など)・報道部(高田壬午郎・松浦錠太郎など)・厚生部(竹山朝生・山口国一・融紀一)の四部に分れていた。そしてその外郭団体として遠州文学報国会が昭和十六年一月当市田町の共生会館で結成された。企画部・文学部・演劇部の三部より成り、各部に職場・小国民・婦人の専任をおき、同人には気賀由利子(引佐郡気賀町)・後藤一夫・竹山亥三美(当市塩町)・光明静夫(西遠高等女学校勤務、掛川市塩町)・石原武男・渥美静一・加藤貞雄・名森三吉・木本陽二・滝茂・村瀬美成(浜名郡五島村松島)があった。【遠州文学】文学部の出版誌に『遠州文学』(準備号)があった。光明静夫・石井寛(当市鴨江町)が編集、創作を気賀由利子・竹山亥三美、詩を浦和淳・後藤一夫、短歌を松原旭・鈴木肇、俳句を山内泉などが発表している。ついで十六年十二月には『遠州文学』(第一冊)が季刊誌として発刊された。編集は竹月冬、発行所は遠州文学社(当市高林町後藤一夫方)で、後記によると「臨戦体制下で今後は随時刊行したい」とあり、小説「小篋」を気賀由利子、随筆では「私の少女期と浜松」を鷹野つぎ、「啄木に逢はざる記」を瀬川草外、他に城三平(天城良平、当市松城町)、詩を竹月冬(当市中山町)・岡本真宏(当市鴨江町)・藤田晴弘(当市北寺島町)・菅沼五十一、自由律俳句を内田六郎(当市田町)・田中貫川・細谷野蕗・谷ゆりかが執筆している。しかし第一号のみで終った。