目次
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第四章 市制の施行と進む近代化
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第七節 文化
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第四項 短歌
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加藤雪腸の短歌運動
加藤雪腸と浜松歌壇
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かねて師子規にならって短歌を志していた雪腸が、作歌に入ったのは浜松在住七年目の明治四十四年であった。その志すところ「竹ノ里人」の吟風であった。【曠野社】結社の名は曠野社といい大正二年創立、加わるものに伊東紅緑天・法月紫星(歌客)・永田武之(浜名郡飯田村、大正十四年六月没、二十八歳)をはじめ客員に瀬川草外(深、岩手県出身、当市元城町、医師、石川啄木と交友関係があった、昭和二十一年没)などがあった。
この雪腸が本格的に短歌を志すのは大正十一年からであった。【木犀歌会】当時浜松には短歌会として木犀歌会(大正十一年結成、まんだら社、大正十二年五月解散)があった。機関誌『もくせい』を発行し会員細田西郊(当市板屋町)・奥村晋(当市早馬町、大正十二年五月没、二十五歳)・山田千之(当市元城町)・中谷福男(当市紺屋町、昭和四十九年九月没、八十六歳)・磯部汀鳥(貞一郎、当市菅原町)などがあり、十二年一月天守閣で歌会をし、ようやく歌風勃興の時代であった。
加藤雪腸