落葉松短歌会 遠江短歌大会

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 雪腸は大正十二年七月に瀬川草外・宇波耕作(浜松師範学校教諭)・永田武之・佃寂村(完三、名古屋新聞浜松支局長)をまねき鈴木肇・斎田玉葉(当市鴨江町)・平松東城・中谷福男・近藤用一らを加え新しく浜松に短歌会を結成し、落葉松短歌会と名づけた。機関誌『落葉松』(表紙を本田庄太郎・相生垣瓜人・松山荘平などが画いている)を発行し、月例歌会はもちろんその年の秋には引佐郡三嶽(みたけ)へ吟行会を催し初山宝林寺を見学したりした。ついで翌十三年十一月三日遠江短歌大会(弁天島白砂亭)を開催し気勢をあげた。出席者二十三名に達し、浜松地方での最初の短歌大会であった。このとき柳本城西も招かれて出席している。【はりはら】なお『落葉松』は十三年九月に『はりはら』と改題している。けだし「万葉」の古歌によったものである。『谷島屋タイムス』も短歌作品の発表場でもあった(中谷福男「谷島屋タイムスとその歌人群」『麦第五輯』)。
 
城西さみだれの夕晴れくれど花桐の葉にたまる水かわきあえずも
雪腸肌ざわりやはらかならねど初夏の遠州縞は着のすがしもよ
紅緑天母上よななげきたまひそ人の子は虫けらのごと死にやすからず
草外曇る夜の更け静もりて天竜川河鹿鳴きをり上流(かみ)に下流(しも)にも
耕作日毎来て水あみすればささ濁るこの佐鳴湖もいとど親しき
遠江荒れにけらしも横伏せし太藺田圃に鳥なけさけぶ
東城青々と芹しげりたるかたはらに湧く田の水は砂をうごかす
歌客建てまくは浜名の湖のはしき島松に守らせむ子規の句碑かも
福男吹き荒ぶ海風はやし砂丘(おか)の上の小屋に辿りて息づきにけり
用一しだれたる稲の実りの上にして三嶽の山はくきやかに見ゆ
新平曳馬野は土用となれば南風ひねもすに吹き止む時もなし