浜松地方に実質的に俳句運動がはじまったのは加藤雪腸(せっちょう)の来浜以来であった。雪腸は単に俳句の先覚者としてのみならず短歌の革新運動にも口火をきり、短詩型文学を通じて絶えずその指導的地位にあり、浜松在住三十年におよび浜松文化の向上に貢献するところが頗る大きかった。
雪腸と浜松との関係は明治三十七年静岡県立浜松中学校教諭として来任し、浜松に居を定めたことにはじまる。雪腸(孫平、明治八年遠江国榛原郡細江村、現在榛原町生、昭和七年十一月没、五十八歳)は、静岡県立師範学校在学当時に正岡子規の門に入り(明治二十八年)、明治三十年(二十三歳)子規を訪問し、俳句誌『芙蓉』を発刊(明治三十二年)、俳句運動に入った。【颯々句会】浜松(常盤町稲荷小路)へ移ると「二、三に別れてゐたる会を一団と為し」(『ホトトギス』)四十年正月には颯々会という句会を結成し、俳句運動をはじめている。【鳴雪来浜】参加する者に坦々・渓南・六痴(神村直三郎、浜名郡芳川村)・不老(大橋精一、浜松小学校教員)・杜天魚・零史・黙々などがあり、四十二年八月には内藤鳴雪(めいせつ)を招き気勢をあげた。出席者に高木晴堂・中村素白・鳥居柳園・野沢十寸穂・三浦木然・岡本孤峯・松井将荘・大橋不老・山内卜流・神村六痴・渥味渓月(あつみけいげつ)があった。このとき渓月は「相阿弥の絵に活け栄ゆる黄菊哉」と吟じている(『ホトトギス』)。【碧梧桐来浜】四十四年六月碧梧桐(へきごどう)を招いた。碧梧桐は六日間滞在し、その演武館の句会には伊東紅緑天・柳本城西・零史・山梔子・寛銭子・井川鼎苑などの名がみえている。【虚子来浜】また四十五年一月十一日、西下の途中に虚子(三十九歳)は雪腸(三十八歳)を訪問し、その宅(当市元城町)に一泊している。虚子は翌日雪腸の弟子伊東紅緑天の案内で佐鳴湖畔を散策、築山御前の廟などを参拝し、午後に西下している(高浜虚子「遠勢志紀行」『ホトトギス』明治四十五年二月号)。