【曠野】雪腸は大正十五年六月に俳誌『曠野(あらの)』を創刊し「浜松の新俳壇を担う」と題する論文を発表し新しい意気込をもって俳句運動をはじめた。けだし虚子の作句態度に接し従来の十七字型俳句に行詰りを感じたからであった。そして新傾向の俳句を提唱し、これを「自由俳句」と称した。加わるものに竹田磊石(らいせき)・口田朴也(静男、当市高町、大正六年浜松の清水吟社所属)・田中貫川(麻次郎、当市北寺島町)・高柴象外(当市下池川町)・富田翠邦(太郎、当市船越町)・瀬川草外・久野仙雨(せんう)(当市平田町)・百合山羽公(ゆりやまうこう)などをはじめ合計四十七名、まさに浜松地方の全俳人を網羅した感があった。
そして月例句会を催し、つぎつぎに東京から俳人を招き、その説を聞いた。
曠野集