俳人の来浜 曠野集 自由俳句全盛時代

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 【井泉水 一碧楼 碧梧桐】さきに大正十三年十一月長谷川零余子(れいよし)を駅前花屋旅館に招いたことがあったが、十四年九月荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(雪腸宅)、十五年一月に『海紅』主宰の中塚一碧楼(玄忠寺句会)、八月河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)(元城町報徳社句会)、十月再び一碧楼(教興寺句会、その後昭和二、三年にも招いている)、大橋裸木(らぼく)等を招いている。浜松では当時一碧楼の海紅が六十八%、碧梧桐の三昧が十六%、井泉水の層雲が十六%を占め定型は皆無に近かった(『曠野』)。昭和四年十二月には『曠野』が三十八号に達したので、既刊の『曠野』より五百二十六吟を選んで記念句集『曠野集』(編集加藤孫平、発行所曠野社雪腸居、元目町四一番地)を十二月に発刊した。井泉水・碧梧桐・一碧楼・大橋裸木・安斎桜磈子(おうかいし)・塩谷鵜平(うへい)の作品をはじめ細谷野蕗(のふき)(信吉、当市鴨江町)・竹田磊石・田中貫川・口田朴也・瀬川草外・久野仙雨・百合山羽公・平野高歩・古山晴洲(富朗とも号す、重信、浜名郡芳川村都盛、句集『銀木犀』)・田中波月(戦後島田で『主流』を主催し、口語俳句を提唱する)・永井治雄・本田庄太郎・川上如雲(嘉市)・原田麦茶・富田有秋・河合木芽・中村友水・小竹春雪(禄之助、当市高町)・湯浅雪汀(輝夫、当市鴨江町)・広田千歩・篠紫九十九(根木浩)・宮本藺香(甚七の子)など百二十二作家の作品がのせられ、当時の浜松地方の主な俳句作家はほとんど網羅されている。まさに浜松自由俳句というよりは浜松全俳壇の金字塔であった。装幀本田庄太郎、挿画栗田雄(いずれも浜松出身の画家)・川上如雲であった。雪腸(せっちょう)は、その後記で作句態度につき「自身の眼で視た儘、耳に聴いた儘の生写しが写生の本義だなどと唱へて」いるのは誤りで、「自然と自己とが一つに、情緒的な深い呼吸をしたる如き」でなければならないといっている。