雪腸は浜松在住三十年近きにわたり、子規直門という誇を持ちつづけ、月並俳句を排し虚子(きょし)の花鳥諷詠を斥け、将来の俳句は象徴詩でなければならぬとして、その提唱する口語の「自由俳句」の普及につとめた。そして常に浜松俳壇短歌壇の指導的地位にあった。激情家で虚子と口角泡をとばして論争し、碧梧桐を叱咤して、自論をゆずらなかった。俳句をたしなむものがあるときけば道を遠しとせずこれをたずね、人情ゆたかでよく門弟の世話をみた。浜松で文学を好むものでこの当時雪腸の影響を直接間接にうけないものはほとんどないといっても過言でなく、短詩形文学を通じて浜松の文化の向上につとめた功は大きい。しかし雪腸には句集も句碑もなく、遺稿集『自由俳句管見』(昭和十九年七月版)があるばかりである。なお『曠野』昭和八年二月号(第八巻)は雪腸追悼号を発刊、昭和十三年十一月には「遺墨展」(浜松市立図書館)が催されている。
雪腸四句 | |
麦二三寸三方原のあたたかさ | (明治三十年) |
しばしの雲かげにも霙れ | (大正十一年) |
落葉こゑあり雲立の楠くらく | (大正十五年) |
しはぶきしても木の葉おちちるみちにて | (曠野集) |