【虚子】浜人(八郎、明治十七年一月長上郡原島生、句集『浜人句集』『巌滴』、昭和四十七年八月当市和合町にて没、八十九歳)は郡山中学校教諭時代の大正三年にホトトギス雑詠に投句をして認められ、その年十月京都で虚子と初対面、島村元(はじめ)などと『みつやま』を刊行した。【青畝】同六年浜人は句行脚の虚子を弟子の阿波野青畝(あわのせいほ)とともに自宅に迎えている(阿波野青畝「その頃の思い出」『定本浜人句集』)。虚子は浜人を『ホトトギス』同人に推し同八年には『ホトトギス』に「進むべき俳句道」という文を連載し同派の代表的な作家の一人として浜人を紹介、十年にはホトトギス課題選者の一人に推薦した。浜人三十八歳、これによって浜人の名は一躍して俳壇に知られるにいたった。同十一年沼津中学校時代に同地の俳誌鈴木蜚主宰の『すその』の選者に迎えられ俳論にも筆をふるった。けだし浜人の全盛時代であった。しかし虚子の写生論と意見を異にするに及びホトトギスへの投句を中止し、まもなく「すその」を去って自ら『みづうみ』を創刊した。昭和十四年三月であった。このとき浜人は師虚子に長い間の疎遠を謝し同年七月東京のホトトギス発行所に虚子を尋ねている。虚子六十六歳、浜人五十五歳、浜人はこの日のことを「窓外梅雨粛々たり」(『浜人句集』)と記している。
浜人五句 |
暖かに投げ棄ててある箒かな |
秋晴や半日歩く只の道 |
只一人泳ぎ上るや秋の雲 |
籠坂の月代遠し谷の虫 |
いろいろの岩を洗うて秋の水 |
昭和十六年戦局が苛烈になると一県一俳誌の統制により『すその』と合同して『ひこばえ』という新誌を創めたが、まもなく『みづうみ』を復刊し中央俳壇に関係なく独自の道を歩いた。弟子に鈴木ゆすら(八郎、浜名郡長上村下石田)などがあった。『みづうみ』は浜人没後もその高弟大橋葉蘭(新三、当市中沢町)によって継承されている。【句碑】句碑には浜名湖弁天島埋立地に「鴨すでに一連とぶやそこの空」(昭和十六年建立)、浜名湖舘山寺大草山に「秋惜む松に夕日や舘山寺」(昭和四十年十月十八日建立)などがある。