当時催されたおもな展覧会には、松山荘平展(大正十一年四月)・佐々木松次郎展(十五年一月)・三輪捨三郎展(十五年五月)・本田庄太郎展(十五年五月)・野末桃古展(昭和三年一月)などがあった。その会場はほとんど演武館であった。また大正十一年四月には谷島屋タイムス社が主催となって「秦西名画展覧会」をしている。その出品物はほとんど山本貞二郎(敷知郡富塚村馬生生、晒業、大正十二年没、三十四歳)の収集品であった。【山本貞二郎】山本貞二郎は浜松が生んだ洋画愛好家で、いちはやく岸田劉生(りゅうせい)の作品に着目し、大正四年には劉生を尋ねている。『劉生画日記』(第一巻)にはこのときに貞二郎が画を選んでいるスケッチがのっている。松本長十郎とも親しかったので、文芸誌『死の塔』の創刊号の表紙を岸田劉生に依頼している。劉生も八年五月貞二郎をその宅にたずね写真を撮っている。貞二郎が勧業債券を売って求めたという劉生の「麗子微笑」(大正十年作、重文指定)は、現在東京国立博物館に収蔵されている。十二年二月山本貞二郎の死を聞いた劉生は「あまりの事実に悲しく又淋しい」(『画日記』)といっている。貞二郎の庇護をうけて劉生の弟子の中島正貴(草土社同人)はしばらく当市三組町にいたこともあった(浜松城付近を画いた作品「作左山」がある)。
浜松の岸田劉生(大正8年5月撮影)
左から 中島正貴 山本貞二郎 貞二郎夫人
岸田劉生 加藤某 竹村啓介