中村精と柳宗悦の来浜 高林兵衛と日本民芸美術館

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 昭和初期はわが国の民芸運動の黎明期であったが、これを最初迎えたのは浜松で、柳宗悦(むねよし)が昭和二年一月に、かねて民芸方面に関心をもっていた中村精(当市中島町生、旧姓平松、当時浜松誠心女学校教諭、昭和四十八年七月没、七十二歳)を訪問したことにはじまるといわれる。一月十三日の夜であったが、その夜は精の肝入りで尾張町の中村弥八別宅に精をはじめ浜松在住の内田六郎・羽仁春・鈴木肇などが出席し宗悦をかこんで座談会を開催、翌日は精の案内で積志村有玉(当市有玉南町)に時計の収集家として知られた高林兵衛をたずねたのであった。やがてこれが機縁となって宗悦と兵衛とのあいだに日本民芸館設立の話が進み、翌三年春東京上野公園の御大礼記念博覧会には宗悦が設計し兵衛が建築を担当し三十五坪の民芸館を出展することになった。大工は有玉の吉田徳十、瓦師は上島の川合梅太郎で、展覧会用の仮建築ではあったが日本最初の民芸館であった(のちに大阪市山本為三郎邸内へ移築)。六年四月兵衛はその邸内にある同家の民家を日本民芸美術館と名づけ民芸品の常設展示場とした。門柱には宗悦の筆になる「日本民芸美術館」の木札がかけられたという。浜田庄司・河井寛次郎なども来館している。芹沢銈介(せりざわけいすけ)を柳宗悦に紹介したのも高林兵衛であったという。わずか二か年近くの後に閉鎖したがわが国で最初の常設民芸美術館であった。宗悦は「民芸館の生立に忘れ難い思い出である」(柳宗悦「民芸館の生立の記」『工芸』第六〇号)と述べている。