金融機関 一県一行主義 静岡銀行の誕生

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 銀行も銀行法に基づき整理合併が励行された。西遠銀行は大正九年に遠州銀行へ合併されたが、その遠州銀行は静岡三十五銀行(静岡市)と昭和十八年三月に政府の一県一行主義の勧奨により合併、新しく静岡銀行(静岡市)の出発となった。続いて浜松銀行は同年六月に、浜松貯蓄銀行も同年十二月に、いずれも静岡銀行へ合併となった。このため浜松市には銀行の本店がなくなってしまった。これについて中山均は「私は一県一行主義には反対であります。経済単位を考えずに、行政区制によって一県一行をやったことは無理です。静岡市は行政の中心、浜松市は産業の中心である。納税から言っても生産から言っても、浜松市から静岡市に本店を持って来るということは、浜松地方から言うと産業の発展にある程度害があったのじゃないかと思います」(『中山均 人と思いで』)と言っている。明治以来県下で銀行業がもっとも発達していた浜松は、政治都市として面目を明治九年静岡へ譲って以来七十年にして、今度は県都中心主義により経済的な地盤を静岡市へゆずったのであった。