最初は開拓団の共同経営として開拓に着手、五年後には各自十余町歩の耕地の分譲をうけて個人経営に移し、主として農耕牧畜に従事する計画であった。しかし厳寒と不毛の地の開拓は容易でなく、その運営が危機に頻したので、その救援のため大野篁二(市会議員、昭和十三~十七年)が渡満したのは二十年一月であった(『大野篁二』)。まもなく同年八月にソ連軍が満州に侵入を開始すると、白丹昭の浜松村も戦火に晒されて閉団撤収のやむなきにいたった。このとき帰還を果せず物故した団員は百五十名に達したという。【浜松帰還】大野篁二はじめ開拓団員が浜松へ帰還したのは二十一年九月八日であった。浜松市都田町白昭はこれらの人たちの開拓した地である。なお浜松市から渡満入植した人たちは竜山開拓団・浜江省朝川・三江省鶴立崗静岡村などにも多数いたが、みな同じような運命をたどったのであった。