戦争が長期化してくると戦争の影響が各方面に現われはじめた。昭和十四年九月は「浜松測候所開設以来五十四年目の大旱魃なり」と新聞に報ぜられた旱魃が続き、十月にはいわゆる九・一八禁令の公布によって、物価・賃金・運賃・家賃・地代などが統制され、あらゆる物資が戦力増強のため軍需産業へ向けられるようになると、生活物資が俄(にわ)かに入手しがたくなってきた。「ぜいたくは敵」という標語が唱えられ、主食の米は農村の人手不足によって産額が減少し十五年から配給制となった。食堂や料理店の米食が禁止となり、白米は「ぎんめし」といわれて尊重された。【切符制】砂糖・味噌・醬油などの不足が目立ってくると、そうした需給の不平均を除くため切符制による配給がはじめられた。【通帳制】また品物によっては通帳制が実施され、これらをふくめて十六年ごろには配給物資は数十種に達した。【買溜と闇値】そしてこのような品不足はやがて買溜めや闇値(やみね)を招くにいたった。電気の節約でネオンの広告塔は見られなくなり、ガソリンの不足のため木炭を燃料とする自動車が走る一方には歩け歩け運動が唱えられ、ラジオ体操が流行し、体力検定(昭和十五年四月国民体力法公布)が実施され、国民服(同十五年十一月国民服令公布)が奨励され、十五年十一月には紀元二千六百年記念式が盛大に挙行された。そのようなうちに十六年四月十六日には浜松市板屋町に四十七戸焼失という火災が発生し、七月十二日より大風雨で新川が氾濫し常盤・下池川・山下・海老塚・砂山町等、浸水五千五百戸に達した。また国鉄浜松と新所原間及び二俣線都田駅付近が不通となった。