昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦が布告され(これを大東亜戦争といった)、はなばなしい戦果が報道された。浜松市長横光吉規は十七年の年頭の辞で「見よ既に開戦劈頭ハワイ真珠湾に於て更に後三日マレイ沖に於て驚天動地の大捷を博し全世界を震撼せしめ戦局の前途を決定的に明示いたしたではありませんか(中略)今日の感激と決意とを更に深く銘肝し(中略)聖戦の目的に向って邁進致したいと存する次第であります」と市民の覚悟を促している(『浜松市公報』)。しかし生活事情は悪化する一方で、大人一人一日二合三勺(三三〇グラム)と定められた白米の配給量(十六年五月実施)も、はじめは七分搗であったのが二分搗となる状態であった。玄米同様のこの米を一升瓶に細い棒という速成米つき器でこつこつと精米にすることが流行し、それが主婦や子どもの仕事となり、糠はぬか漬に用いた。