昭和十九年七月にサイパンが失陥(しっかん)すると、敵機の本土空襲を未然に阻止するため同島の爆撃を実施することとなり、浜松の教導飛行師団(第二独立飛行隊―旧浜松陸軍飛行学校)も他の基地の部隊とともに、その指令を受けると直ちに猛訓練を開始した。十一月二日の第一回出撃の日を迎え、同日十二時二十分に新海少佐の率いる陸軍九七式重爆撃機九機は浜松基地を出発、硫黄島で燃料の補給をすませ、翌朝の払暁にサイパン島の米軍飛行基地を奇襲した(第一次マリアナ攻撃)。かなりの戦果をあげたが五機の未帰還機を出した(二機自爆、二機不明、一機不時着)。